ご報告


わざわざ書く必要はないと思っていたのですが。
ここ2~3日で会う方に「疲れてそう」「元気がない」と度々言われましたので。
ご心配かけてしまっていますし。
連絡が滞ったり、予定していたものをキャンセルしてしまったりも続きましたので。
俗にいう「言い訳」を書きます。

母親が倒れました。
そのまま緊急入院。

うちの家族はわりとのんびり屋さんなので、そのときの連絡ではあまり緊急ではないのかな?
という印象でした。
わしは打合せ中に知らせの電話をとったのでなおさらすぐじたばたをすることはなく。
打合せを終えてじわじわと生まれる不安感。
すぐに車で実家の伊豆へ帰りました。
そのまま病院へ。

もともと体があんまり強くない母だったので。
体調を崩している姿は見慣れているのだけれど、やっぱりしんどそうだった。
「身内の病気は日が経てば治る」というマインドがわしにはあって。
もしかしたらみんなどこかにその感覚はあるのかな…?

明日になればもっと良くなる。
入院しているんだし安心。
半分は自分に言い聞かせるようなこの感覚が生まれた。
どうしても次の日には東京に戻らなければいけなかったので、そのあと実家に少し顔を出して食事。

そのまま東京に戻るつもりだったけど。
もう一度母に会っておくか。という自分には珍しい感覚が生まれたので面会時間はとっくに過ぎていたが病院にもう一度顔を出した。


昼間とうって変わって体調が悪化している母。顔も手も足もパンパン。高熱。
もう見る影もないくらいに顔が変わっている。

とにかく気ぃ使いの母は、ナースコールを押せなかったらしい。
ただ苦しくなる自分に耐えていた。
「これってちょっとまずいんじゃないかな」
母のその姿にそう感じた。

0時近くかな。
さすがに東京に戻らなくちゃいけなかったので「また来るからね」と母に告げて別れた。
帰りの車の運転中に「これでいいのかな」「今帰って後悔しないか」
ものすごく考えた。
結局わしはそのまま引き返して実家にいることにした。
この時点ですでにご迷惑をかけた人もいたので。
ごめんなさい。


何を言ってもお医者さんでもない自分に出来ることはないし。
母の具合は良くなるどころか悪くなっていくのがわかった。
「今こういう治療をしていますので」
「今調べてますので」
この時間は正解ですか?
間違っていませんか?
ほかに出来ることはありませんか?
不安とイライラが生まれた。

このままでいいのか?
もっとこちら側で動くべきなのではないか。
とはいえお医者さんがついている。
だから大丈夫なのか。
大きな病院に行かなくてもこのままでいいのか。
不安とイライラが生まれた2。

そんな中でもわしにはライブがあったり。
何が何でも東京に戻らなくちゃいけないタイミングはあった。
とくに2月14日の浅草でのライブ。
この日は本当にメンタル的に崩壊寸前だった。
ライブハウスに向かう途中でも何度も涙が出た。
みんなと会ったら少しだけ気持ちが楽になったけど、母のことは誰にも話していなかったし。
話したことでテンションが下がるようなメンバーではないけど。
気を使わせたくなかった。
ライブ中にもMCで母のことを話してしまおうか。
こうしてる今も連絡が来てないのか不安だなぁと思いながら無我夢中でライブをした。

バレンタインデーということもあり、この日はたくさんのプレゼントを頂けた。
それがまたわしの中ではすごくうれしかった。
あぁ、誰にも話せないけどみんなが応援してくれてるんだなと思えたし。
いつも支えてくださるみなさんありがとう。

ライブを終えてまたすぐに地元へ。
「あ、調子よくなってるじゃん。良かった」て言えると思いながら病室に入るのに。
母の容態はむしろ悪くなるばかり。
酸素マスクをしていないと呼吸も満足にできない。

わしの地元はものすごく田舎。
電車も走っていない。
移動は車。
家からすぐ近くの病院に入院したおかげで毎日朝から晩まで病院にいられた。
でもこのままではまずい。
その気持ちは日に日に。むしろ時間ごとに強くなる。
「大きな病院へ行こう」
父に言った。
返事は「このままでいい」と。
いろんな思いがあったんだと思う。
大きな病院に行くことは家からも遠くなる。
近くにいられなくなる。
これを何より懸念したのだとは思う。

でも「大丈夫だから」と自分に言い聞かせて安心をするタイプの性格の人なので。
この大丈夫じゃない状況に転院の決断ができないことは本当に取り返しのつかないことになるとわしは直感していた。

先週の頭。
「もう、どうにも変わらないのできびしいですね」と先生。
バーカバーカバーカ!!!!!
と心の中で思った。
「転院しましょう。」
遅いよ。

そのまま救急車で大きな病院へ転院することになった。
救急車にはわしが同乗した。
救急隊員の方に母の普段のことをたくさん聞かれた。

ほとんど何も知らない自分に気づく。
生年月日以外、何にも知らない。
今までどれだけ放置してきたんだろう。
どれだけ話を聞いてあげてなかったんだろう。
家族の会話がなんで出来なかったんだろう。
ろくな親孝行も出来ていない、向き合ってもいなかった後悔がひどかった。

30分くらいして救急隊員さんが
「まさのりくんって、あの内田先輩ですか?」と。
「はて?」
「一つ後輩の○○です!!」
「おぉ!!」
中学生のときに同じバレー部だった後輩くんだった。
なんとも立派になって。
このやりとりはわしの気持ちをすごく和ませてくれた。

病院につくなりひとしきり検査を受けて説明を受ける。
「もうなんとも」というのが先生の言葉だった。
そこからはここには書きたくないようなしんどい言葉をたくさん聞かされた。
人づてやテレビで見る「人工呼吸器」。
これを自分の家族が使うかもしれない状況での判断やリスク。
そんなの知らなかった。

赤裸々に書くと。
とにかく呼吸ができない。
原因もまだあまりわからない。
このまま呼吸が出来なくなるかもしれない。
呼吸が止まった場合「人工呼吸器」をつけるのかどうか。
ご家族で判断してください。
そして今すぐ決めてください。
お父さんとお姉ちゃんが話し合った。
「人工呼吸器」はつけません。
延命はしません。
と。

この結果はわしにとって生まれて初めて突き付けられた衝撃だった。
何も知らない母の手を握って「大丈夫だよ」としか言えない現実。
こんなに苦しそうにしているのに「がんばって」と声をかける違和感。

そのまま緊急病棟に入院。
親戚のみんなが続々と集まった。
声も出ない母はみんなに「ごめんね」とばかり言っていた。
わしは毎日人に見られないように、母に気づかれないように泣いた。


「大丈夫大丈夫」毎日言葉をかけながらも、こんなにも根拠がなくて頼りない言葉ってあるのかな。
と気持ちが折れそうだった。

あまり状況の変わらない中。大きな病院に転院して2日目かな。
先生が「●●の治療法を試してみましょうか」と新しい治療法を提案。
心なしかそこから容態が徐々に良くなり始めた。
あ、なんか少し安心かも。


母が夢を見た。
自分の足元には真っ黒い花が咲いていた。
少し先にはきれいな花が咲いていた。
そこに2年前に亡くなった愛犬がいて。
近づこうとすると吠えたらしい。
「こっちは来るな」て言ってたのかな。


そこから母の容態はみるみる良くなってきた。
最初からここまで読んでくれた人はもうだめかと思ったでしょう?笑
そんなに劇的に変わるの?
というくらいに母の体調は回復を始めた。
今ではもう酸素マスクも外れて、食事も少しずつ食べ始めている。
なんとも奇跡。
まだ入院は続くけど確実に全回復に向かっている。
と思えるくらいに回復したのが21日。
ブルシュガのマウントレーニアの前日である。

わしはこの日朝から機材の搬入を引き受けていたので朝一でマウントレーニアに行かなければならなかった。
「やべぇ。どうしよう」
なんて嘘をついてドタキャンをすればいいんだ?と悩んでいたので。笑

前日に母が回復したのは「もう大丈夫だ!いってこい!」ということだと思っている。
もちろん体調が良くなったから東京に戻れたのだけどね。
かぁこちゃんとだいちゃんは優しいから。
母のことを本番前に話したら心配してしまうし、気を使わせてしまうと思ったので体調不良と回復の報告をセットでさせてもらった。笑
こんなことがあったんだよ。と。

「マウントレーニアが終わったらすぐにみんなでお母さんに会いに行こう」と言ってくれたかぁこちゃんの言葉が嬉しかった。

と、こんなことが2月はありました。
もうすっかり元気な母とわしです。
いろんなものを飛ばしてしまいました。
本当にごめんなさい。

芸能をやるうえで、親の死に目に会えない。
プロはそんなの当たり前。
とは言いますが。
わしは家族が死ぬ程大事でした。
泣けるほど愛しいと思えました。
そこに気づけたことが今後の力になると思います。

きれいごとかもしれませんがこの先の生き方。頑張り方。
これにすごく影響してくると思います。
みんなも絶対に健康でいてくださいね。

夢うらら人間ドックツアーでもやりましょうか?
長くなりましたが。
母はもう完全に元気でウンコの話しとかしていますので。
そこはご心配なくです。


今回の件ですごく支えてくれた方や、そのうらであった嬉しい話し。人。のこと。
またこの後のブログで書いていきますね。

うちだまさのり

伊豆の生んだシンガーソングライター なんでもやるからなんでも言っておくれ。 いつもカレー食べたい。

0コメント

  • 1000 / 1000